松永伸司『ビデオゲームの美学』(慶応義塾大学出版、2018) 読書会用 第八章レジュメ

ビデオゲームの美学

ビデオゲームの美学

 

 

読書会の第2回に向けて、第八章のレジュメを以下に記す。

 

第六章の冒頭で、次のように述べられている。 

ビデオゲームの意味作用の独特の特徴は、二種類の意味論が相互に関わる点にもっともはっきりとあらわれる。(p116)

 

第六章、第七章ではこの「二種類の意味論」すなわち、

について論じられた。

 

そしていよいよこの第八章では「二種類の意味論の相互作用」について語られることになる。

 

 

その「相互作用」の基本的な型として、以下の3つが挙げられている。

 

  1. 類比的推論
  2. 謎解き
  3. シミュレーション

 

いずれもゲームならではの意味作用のあり方であり、またビデオゲーム作品の評価の焦点にもしばしばなる。

 

 

 

1.類比的推論

虚構的内容を直接表す方法はほかの芸術形式と大きく異なるわけではない。たとえば〈F:マリオ〉を表したければマリオを表す絵を用意すれば良い。

 しかし「ゲーム的内容」――分かり易く言い換えるとそのゲームのルールや仕組み――を表す方法については、ビデオゲーム独自の議論を必要とする。

 

ゲーム的内容を表す方法については以下の3つが考えられる。

 

  1. 記号とゲーム的内容の関係が明文化されているケース(例:説明書)
  2. 作品が属するジャンルの慣習についての知識がゲームメカニクスの理解に寄与するケース(例:「武器」「HP」)
  3. 純粋に虚構的内容だけからゲーム的内容を引き出しているケース

 

3のケースが「類比的推論」が行われているケースである。

 

 

ディスプレイ上に表象された記号《階段》を見たとき、それが〈F:階段〉であるとプレイヤーは認識し、かつそれが〈F:移動手段〉であることを想像する。

そしてそこから《階段》は〈G:移動手段〉であることを推測する

この、ゲームプレイヤーが当たり前のように行っている一連の流れを「類比的推論」と呼ぶ。

 

慣れてくれば、《階段》を見た瞬間にそれを〈G:移動手段〉であると認識するようにもなるだろう。

 

 

 

2.謎解き

類比的推論はゲーム行為をするために虚構的内容を通してゲームメカニクスのあり方を把握することだが、

虚構的内容を通してゲームメカニクスのあり方を把握しようとすることそれ自体がゲーム行為になる場合がある。

それが「謎解き」である。

 

 

ディスプレイ上に表象された「鍵のかかった鉄格子がある」というテキストを見て、プレイヤーは〈F:鍵のかかった鉄格子は鍵によって開く〉という虚構的内容を想像する。

そこからプレイヤーは〈G:鍵〉があること、それを使えば〈G:鉄格子〉を開けることができること、を類比的推論する。

謎解きゲームは、このプロセスそれ自体がゲーム行為となる。

 

 

 

3.シミュレーション

ただ単に画像やテキストによって虚構世界を表象するのではなく、動的なモデルによってそれを表象するもの。

 

  • 例:SimCityは、ただ都市の画像が置かれているわけではない。プレイヤーは交通や電力などのインフラを整備し、治安や公害に配慮していくといったゲームメカニクスとの相互作用によって、この虚構世界のあり方を理解していく。 

 → RPGも、FPSも、謎解きゲームも、すべてゲームメカニクスとの相互作用で虚構世界をシミュレートする側面があり、シミュレーションであると言うこともできる*1

 

 

シミュレーションの特徴

  • 類比的推論とシミュレーションはしばしば同時に成立する。

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  • 類比的推論を伴わない場合でも、大半のビデオゲームシミュレーションは、ゲームメカニクスによって虚構世界をシミュレートすると同時に、ディスプレイ上の記号によって直接的に(たとえば言語や画像として)虚構的内容を表す。つまりそれらは、シミュレーションではない仕方でも虚構世界を表象する。

→ よく意味が取れないがこういうことだろうか。

 

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  • 「重ね合わせ」「類比的推論」が行えない場合でも、ディスプレイ上の要素がシミュレーションとして機能する

→ こういうことだろうか。(Spacewar!の例)

 

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  • シミュレーションは、ゲームメカニクスの本性上、複数回の不特定の試行を可能にする。この特徴のおかげで、シミュレーションは、特定の個別的な出来事よりもむしろ、一般的な法則それ自体を内容として描くのに適している

→ さらりと書かれているが、この部分こそが、実はこの章で最も伝えたかったことなのではないか、とも思った。

その具体例が、『September 12th:A Toy World』である。

 

このように、シミュレーションは、それ特有の表現能力を持つ。そして、それはもちろんビデオゲームが持つナラデハ特徴の一つとして数えるべきものである。(p227)

 



Fez』の例はいまいちその重要性が理解できず。

 

 

 

追記

下記、作者様よりコメントを頂いたので、それを踏まえて追記・整理します。

一点「シミュレートと直接的に表す2つの方法を同時に行う場合」の箇所は、書き手の意図とちがうかなというところがあるのでコメントします。意図としては、同じひとつの記号が、①それ自体として虚構世界を表す、②ゲームメカニクスを表し、またそれを通して虚構世界を表す(=シミュレートする)、という2つの機能を同時に持っているというケースの話です。

図としては、右上の四角はなく、左上の四角から右下の四角に向かって矢印が出るかたちになると思います。この矢印は、シミュレーションではない表象(通常の虚構的表象)です。ようするに、重ね合わせ状態にあり、かつシミュレーションが成立している、というケースです。

本の中では論じていませんが、細かいことをいうと、この直接的な虚構的表象による虚構的内容と、シミュレーションによる虚構的内容は、くいちがう場合がありえます(なので正確には右下の四角=虚構的内容は二つあるべきです)。つまり、直接的な虚構的内容としてはXなんだけど、それと記号を共有するゲーム的内容を通してシミュレートされた虚構的内容としてはXではないみたいなケースです。

これを図示すると次のような形に?

 

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1つの記号が、「直接的に(本書p224)」虚構的内容を表象し(=重ね合わせ)、同時にゲームメカニクスを通じてシミュレートという形で虚構的内容を表象するということ。

多くの場合?でその表象された虚構的内容は同じように見えるが、そこが食い違う場合もあり、厳密には重ね合わせ・シミュレートそれぞれで表象される虚構的内容は別物である。

 

コメントにもある「見えない壁」の例でまとめると次のような形に。

 

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ただ、ちょっと気になるのは、ここで「食い違い」が発生しているのは、〈F:ただの床〉と〈F:見えない壁がある〉ではなく、〈F:ただの床〉から類比的推論された〈F:ただの床なのでそこは通れる(=壁はない)〉との間であるようにも思える。

 

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で、「食い違い」が発生しない場合ってのは、単純に「類比的推論とシミュレートが同時に発生している」という最初に挙げたパターンとほぼ変わらないということでいいのだろうか。

 

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もうすぐ読書会始まるので、とりあえずここまでで。

 

 

また、ツイッターの方で以下のコメントも来ていました。

こっちはまたあとでちゃんと確認して検討してみます。

*1:RPGに関しては、通常のゲームプレイにおいてそれほど「個人の成長や世界の探索」がシミュレートされているようには思えない。むしろ、RPGのゲームメカニクスにおいて要請される現実世界との差異がシミュレートされていった結果構成された独特の虚構世界が、日本の和製ファンタジー作品やいわゆる「なろう」小説などの想像力の源泉として機能しているようにも思える。――こういった、ゲームを題材にした別の芸術形式を批評する際にも、本書で提示された「二つの意味論を区別する理論的枠組み」は活用できると言えるだろう。

松永伸司『ビデオゲームの美学』(慶応義塾大学出版、2018)全体の感想

ビデオゲームの美学

ビデオゲームの美学

 

 

こちらでは全体の感想をざっくりと。

 

本書の目的

ビデオゲームの「ナラデハ特徴」をはっきりとさせること。

ビデオゲームを哲学的・批評的に扱ううえでの基礎づけを目指す?

(序章参照)

 

じゃあビデオゲームの他にない特徴って何?

第五章でまさに論じられている「二つの意味論」の存在。

ディスプレイ上の記号から「虚構世界」と「ゲームメカニクス」という2つの量化のドメインを自然と区別して受容している、というのがビデオゲーム「ならでは」の受容の仕方である。

(第二章、第五章参照) 

 

そこから導き出されるビデオゲーム特有の体験

ある記号が表象する虚構的内容からゲーム的内容を類比的推論させる
  • 第八章の「階段」の例。
  • たとえばポケモンの相性表はメチャクチャで本来であれば覚えることなど不可能に近いという話題が最近あった気がするけれど、あれはまさに虚構的内容(「くさ」とか「ほのお」とか「みず」とか)によってゲーム的内容を学習させる代表的な例と言える。
  • ユールの言っていた「フィクションがルールの理解をうながす」とはこういうことか。 

 

→ これはゲーム的行為をドライブするための仕組み。もちろんここに仕掛けを組み込むことで、ゲームならではの叙述トリックを生み出すことができる。

 

あるゲームメカニクスが虚構的内容をシミュレートする
  • 第八章の「原子力発電所」の例。
  • ユールの言っていた「ルールが虚構世界を想像することをうながす/ルールが虚構世界を実装する」とはこちらのことか。
  • ただし、ゲームメカニクスが独特で面白いのは、それが「ある種の手ごたえのあるフィクション」を生み出すからである。(第十二章 p295)
  • その秘密はプレイヤーの行為を介在させていることにある。(第六章 p142)
  • さらに言えば、「プレイヤーの行為の自由」を基盤に置いているからである。(第十二章 p297)

 

第八章で例として挙げられた『September 12th:A toy World』(テロリスト爆撃のゲーム)が魅力的なのは、まさにその「行為の自由」を基盤に置いているからである。

このゲームは〈任意の場所にミサイルを撃てるにもかかわらず、つねに同じ結果になる〉(p227)という仕組みを持つ。

しかも、単純に「こうすればこうする」という形で「常に同じ結果」なのではない。

ゲームクリアを目指して様々なところにミサイルを撃ち込み、それぞれ違った反応がディスプレイ上に展開されるものの、結果として訪れるものは同じようなものである。その抗えなさは、プレイヤーに行為させたからこそ感じさせることができる。

これが、ビデオゲーム特有の体験なのである。

 

『September 12th:A toy World』は実験的なゲームである。

しかし、もちろん一般的なゲームクリアを目指すゲームでも、同じような体験を得ることができる。

たとえば、個人的な趣味で選ばせてもらえば、『Europe Universalis Ⅳ』にかつて存在した「西洋化(Westerlization)」というシステムを思い浮かべることができる。

 

このゲームは15世紀半ば~19世紀初頭の全世界の国を選んでプレイできる歴史シミュレーションゲームだが、ゲームスタート時には、西欧国(フランスやイタリア)と非西欧国(中国やインド)との間には先進技術獲得のための必要コストに大きな差が存在する。

ところがゲーム後半、非西欧国が西欧国に隣接することで実行可能となる「西洋化」コマンドにを使用すると、国内の大きな混乱と引き換えにこの先進技術獲得コストの差を一気に埋めることができるのである。

いわば、明治維新や洋務運動、アタテュルクの革命のようなものをシミュレートしたシステムなわけだが、このシステムを前にしてプレイヤーは、ゲームメカニクスの要請に従って、否応なく西洋化に邁進せざるを得ない現実の歴史をシミュレートすることになる。

もちろん、西洋化を選ばないこともできる。しかし、それを選択すれば、先進技術獲得が遅れるという困難に襲われる。

この「選択の自由」を前提とすることで初めて、現実に存在する「抗えないもの」へと直面させられる、という事態は、ビデオゲーム特有の体験である*1

 

 

その他、面白そうな要素

  • ゲーム行為を「独特の繊細な能力を必要とするものであり、また概念的に答えが出るものではないが、それでいて、人に説明されたり自分で試行を繰り返すうちになんとなくできるようになる行為」(p183)と定義している部分(第七章、美的行為の節)
  • ゲーム行為は現実のものであるということ(第十一章、p281~)

 

→ ゲーム行為についてはもっと読み込んでその独特さを理解していきたい。

 

また、「ゲーム的リアリズム」については第十章 p261~ で触れているが、Ever17とかは虚構的内容からゲームメカニクスを類比推論させる際の「仕掛け」に関する叙述トリックと関わってきそうなので、その部分についてももう少し考察したい(FGOミステリーイベント等も)。

 

ゲーマーのジレンマはあまり問題でないようにも感じるけれど、日本語で検索しても言及しているウェブページが見つからないため、あまり議論に深入りできなさそうのが残念。

 

 

 

我々はつい目の前に見える風景を分割不可能な一枚岩のように見てしまうことが多くある。

哲学/批評の仕事は、そこに(それが真に実在するかどうかはともかく)「仕切り」を加えることだと思っている。

 

本書はゲーム行為において一枚岩に見えていた風景に二つの意味論という仕切りを加えてくれた本だった。

そのことによって、これまでは(見えていながら)見ていなかった数多くの風景が目の前に広がっていく。

この本もまた、そんな体験をさせてくれる本なのは間違いないだろう。

*1:なお、この「西洋化」システムは、現在はより西洋中心的ではないシステムへと差し替えられてしまった。個人的には少し残念な思いである。

松永伸司『ビデオゲームの美学』(慶応義塾大学出版、2018)読書会用 第五章レジュメ

ビデオゲームの美学

ビデオゲームの美学

 

 

読書会に向けて、担当する第五章のレジュメを以下に記す。

第五章は何か核心的なことを述べている、というよりは、用語法を整理し、以後の重要な議論の基礎付けを行うことを目的としているように思われる。

 

1.二種類の区別

  • ビデオゲームの記号によって表象される内容は二種類に区別できる。
  • 虚構世界とゲームメカニクスの二種類。
  • この区別はユール、タヴィナー、マウラなどの先行研究でも論じられていた。
  • 本書の独自性は以下の三つである。

   ① 先行研究で曖昧なまま使われている諸概念を明確に整理すること。

   ② 意味作用*1の観点からこの二面性を論じること。←最重要

   ③ 哲学的な議論に接続、もしくは新たに哲学的に基礎づけること。

 

2.量化のドメイン

  •  二種類の意味論のちがいは量化のドメインのちがいである。
  • 量化のドメインとは「特定の文脈で我々が存在するとみなしている対象の集合」である。

   例1:我々が「マリオが女性を助けようとしている」というとき、

      我々は虚構世界という量化のドメインにコミットしている。

   例2:我々が「マリオのライフは三つ残っている」というとき、

      我々はゲームメカニクスという量化のドメインにコミットしている。

  •  ゲームメカニクスという量化のドメインは「ある意味では現実的だが、ある意味では現実的ではない」→第七章 p200~

   例:「マリオのライフ」なるものは現実世界には存在しない。

 

3.用語と表記法の整理

  • 虚構世界についての内容:虚構的内容
  • ゲームメカニクスについての内容:ゲーム的内容
  • 虚構的内容は次のように表記する。〈F:マリオが女性を助けようとしている〉
  • ゲーム的内容は次のように表記する。〈G:マリオのライフは三つ残っている〉

 

4.重ね合わせ

  • 1つの記号が虚構的内容とゲーム的内容の両方を表象するときそれは「重ね合わせの状態にある」と呼ぶ。
  • 例:ディスプレイ上の≪マリオ≫という記号は〈F:マリオ〉と〈G:マリオ〉の両方を表象している。
  • 重ね合わせが行われる理由はいくつかある。 

   ① ゲーム的記号の個別化のため(ただのドットより人の形の方が分かり易い)

   ② 虚構的内容によってゲーム的内容を類比的に推測させる(第八章の階段)

   ③ ゲームメカニクスをシミュレーションとして機能させる(原子力発電所

  • 重ね合わせにおける虚構的内容とゲーム的内容には、本質的な結びつきはない。
  • では、なぜそれを結び付けてしまうのか、という点については第十二章 p302~ 写実性と有契性の話から語られる。

 

※第4節「区別の正当化」は、二種類の意味論を区別する根拠である「文脈」の存在について確認している節であり、ある意味で自明のことであるため省略している。

これを自明のものとするのは「ゲーマーに共有された直観」でしかないことは、既にp18で述べられている。

*1:ある記号の表現と内容が結びつけられる過程で意味が生じるプロセスのこと。本書p43参照。

ツール・ド・ワロニー2017 第3ステージ

ラスト1.5kmが、平均勾配11%という「ユイの壁」に匹敵する何度を誇る激坂「ウッファリーズ」。リエージュ~バストーニュ~リエージュでも使われている坂なんだっけ? さすがアルデンヌ・クラシックの舞台ワロニー地域である。

 

そして、そんな激坂を制して勝利したのが、今年フレッシュ・ワロンヌ3位の好成績を叩き出したBMCのディラン・トゥーンス。今年まだ25歳の若者である。すでに第2ステージで総合リーダーになっていたため、リーダージャージを着用しての勝利である。このまま総合優勝を決めてしまうのだろうか。フレッシュ・ワロンヌの3位がフロックでないことを証明してくれた。

 

 

途中まで惜しい走りをしていたのがアレクシー・グジャール。2015年のブエルタでの劇的な逃げ切り勝利以降、期待はされていたものの結局2年間まるごと勝利を掴めずにいる彼。久々の勝利かと期待したが、さすがにあの激坂を乗り越えることはできなかった。かつてはカルメジャーヌに羨まれるほどの注目を浴びたグジャール。バルギルのように、復活をすることができるか。

 

 

ちなみにこのツール・ド・ワロニー、第1ステージではベンジャミン・トマが勝利している。ダンケルク3日間レースに次ぐ今期2度目の勝利である。彼が所属する陸軍チームことエキップシクリズム・アルメ・ド・テールは、今年なんと17勝目。昨年は3勝。2013年以来4勝しかしていないチームが、である。何たる躍進。だけどこういうので調子に乗って昇格すると大体失敗するイメージがあるので、彼らはこのままコンチネンタルで勝利を稼いでいってもらいたい気分である。

 

 

ツール・ド・ワロニーは残り2ステージ。生で見るかは微妙だが、最後まで注目していきたいと思う。

ベルギー 奇想の系譜展

先日のバベルの塔展に続き、ヒロニムス・ボスやピーテル・ブリューゲルがフューチャーされた作品展。しかし後半からは20世紀前後の作品も多く展示され、バベルの塔と連続性を持ちながらも、また新たな魅力を発見できる作品展だった。

 

バベルの塔展で見て好きだったボスの「聖クリストファ」がなかったのは残念。しかしボスの「トゥヌグダルスの幻視」は迫力満点。入口付近にあった、同作品の動画版も、音楽と合わせ絶妙な不気味さを醸し出しており、一見の価値あり。

また、同じく入口に用意された、ヤン・ファーブルの「フランダースの戦士」も、何とも言えぬ迫力があり時間をかけて様々な角度から眺められる良い作品だった(終盤のファーブルの作品はあまり興味をもてなかったが、このフランダースの戦士は良かった)。

 

そして個人的に最も、期待以上に良かったのが、ヴァレリウス・サードレールの「フランドルの雪」と、ウィリアム・ドグーヴ・ド・ヌンクの「運河」「黒鳥」といった、20世紀前半の作品たちであった。前者はカンヴァスの3分の1以上を占める空の蒼色の美しさ、そして後者はビリジアンブルーの得も言われぬ感傷的な美しさが印象的だった。「黒鳥」のアイフォンケースが売っていたのでつい買ってしまったほどだ。普段そういうのは一切買わないというのに。

 

まあ、そもそも自分が風景画が好きというのもあるのだけれど。ボスやボス・リバイバルの作品群も、奇妙なモンスターたち以上に、その背景の不気味さをもった遠景にこそ惹かれる部分があるので(「トゥヌグダルスの幻視」背景の燃える家とか、今回はなかったけどボスの「聖クリストファ」の遠景の廃墟に佇む巨大な怪人とか)。

 

 

期待せずに行ったが、想像以上に楽しめた奇想の系譜展。

おすすめである。

カリフォルニア・チルドレンの活躍

ツアー・オブ・カリフォルニアは、若手の登竜門となりつつある。以前からか?

 

たとえば昨年、新人賞2位となったタオ・ゲオゲガンハートは、先日のハンマーシリーズで活躍し、注目を集めた。今年のカリフォルニアでも、新人賞を巡る激しい戦いを繰り広げた。

昨年の新人賞1位だったネイルソン・パウレスは、まだ20歳と若くプロコン以上のチームへの移籍を行わなかったため、今年のカリフォルニアには出場できなかったが、先日のアメリカ選手権U23部門でロードレースチャンピオンに輝いた。

昨年のカリフォルニア新人賞は上位3名がアクソン・ハーゲンベルマンス所属だった。3位だったルーベン・ゲレイロも、現在はトレック・セガフレードで活躍している。

 

さらに、今年カリフォルニアで山岳賞を獲得したダニエルアレクサンデル・ハラミーリョも、先日のツアー・オブ・ハンガリーで総合優勝を果たす。彼もまだ26歳と若いコロンビア人であり、今後の活躍も期待できる選手である。

 

ツアー・オブ・カリフォルニアは、今年からワールドツアークラスに昇格し、ジェリー・ベリーとラリー・サイクリングの例外を除き、原則として地元コンチネンタルチームの参加ができなくなった。昨年あれだけ活躍したアクソンですら。

だがそれでも、今年ラリーのエヴァン・ハフマン(昨年山岳賞)がステージ2勝するなど、やはりワールドツアーチーム以外が活躍できる環境であり続けている。

 

ワールドツアーチームでも、ジョージ・ベネットという、新しい才能の開花を見ることもできた。来年も、注目すべきレースであるのは間違いない。

ケネス・ロナーガン監督「マンチェスター・バイ・ザ・シー」

主演:ケイシー・アフレックミシェル・ウィリアムズ

 

 

あらすじ

ボストンで便利屋として働くリー・チャンドラー(ケイシー・アフレック)は、ある冬の日、兄の訃報を受け取った。

地元のマンチェスター・バイ・ザ・シーに戻った彼は、兄の遺言により、甥のパトリック(ルーカス・ヘッジス)の後見人となるよう伝えられる。

パトリックとの交流を通じ、彼を助けたいという思いも育まれていくものの、リーには、この町に残り続けることのできない理由があった。

それは、彼がこの町で経験した、ある辛い過去であった。

 

 

感想

登場する人物が皆、微妙な距離感をもつ間柄であるのが印象的。

死んだ兄の友人、兄の息子、別れた元妻(ミシェル・ウィリアムズ)、さらにはパトリックと彼が幼い頃から会っていない母・・・互いに互いを愛そうとはするものの、うまくいかない、そんな連続である。

 

それでもラストで、主人公リーが笑顔になるシーンもあり、そこが感動的だった。

 

 

全体的なテンポは、速くもなく遅くもなく。

感想を見てみると、途中で寝てしまった、という人もいたようだが、結構ポンポン進む印象だった。

その中でも、パトリックが「写真」を見るシーンで異様なほどにウェイトがかかる演出と、元妻との再会シーンで目まぐるしく視点が変わる演出は、その一定の店舗に対する大きな変化として現れ、彼らの心情を表現する絶妙な演出だったように思う。

 

 

予告編で流れたテーマ曲が、結局最後まで流れなかったように感じたのだけれど、気のせいか? あれ、凄く良かったんだけどなぁ(あれを聞きたいがために観たようなもの)。

 

 

ちなみに、テーマとしては、「癒せない傷もある、それでも生きていく」というもの。

「立ち向かう」じゃなく、「逃げてもいいんだ」というメッセージである点で、ハリウッドとしては珍しいんだとか。