松永伸司『ビデオゲームの美学』(慶応義塾大学出版、2018)全体の感想

ビデオゲームの美学

ビデオゲームの美学

 

 

こちらでは全体の感想をざっくりと。

 

本書の目的

ビデオゲームの「ナラデハ特徴」をはっきりとさせること。

ビデオゲームを哲学的・批評的に扱ううえでの基礎づけを目指す?

(序章参照)

 

じゃあビデオゲームの他にない特徴って何?

第五章でまさに論じられている「二つの意味論」の存在。

ディスプレイ上の記号から「虚構世界」と「ゲームメカニクス」という2つの量化のドメインを自然と区別して受容している、というのがビデオゲーム「ならでは」の受容の仕方である。

(第二章、第五章参照) 

 

そこから導き出されるビデオゲーム特有の体験

ある記号が表象する虚構的内容からゲーム的内容を類比的推論させる
  • 第八章の「階段」の例。
  • たとえばポケモンの相性表はメチャクチャで本来であれば覚えることなど不可能に近いという話題が最近あった気がするけれど、あれはまさに虚構的内容(「くさ」とか「ほのお」とか「みず」とか)によってゲーム的内容を学習させる代表的な例と言える。
  • ユールの言っていた「フィクションがルールの理解をうながす」とはこういうことか。 

 

→ これはゲーム的行為をドライブするための仕組み。もちろんここに仕掛けを組み込むことで、ゲームならではの叙述トリックを生み出すことができる。

 

あるゲームメカニクスが虚構的内容をシミュレートする
  • 第八章の「原子力発電所」の例。
  • ユールの言っていた「ルールが虚構世界を想像することをうながす/ルールが虚構世界を実装する」とはこちらのことか。
  • ただし、ゲームメカニクスが独特で面白いのは、それが「ある種の手ごたえのあるフィクション」を生み出すからである。(第十二章 p295)
  • その秘密はプレイヤーの行為を介在させていることにある。(第六章 p142)
  • さらに言えば、「プレイヤーの行為の自由」を基盤に置いているからである。(第十二章 p297)

 

第八章で例として挙げられた『September 12th:A toy World』(テロリスト爆撃のゲーム)が魅力的なのは、まさにその「行為の自由」を基盤に置いているからである。

このゲームは〈任意の場所にミサイルを撃てるにもかかわらず、つねに同じ結果になる〉(p227)という仕組みを持つ。

しかも、単純に「こうすればこうする」という形で「常に同じ結果」なのではない。

ゲームクリアを目指して様々なところにミサイルを撃ち込み、それぞれ違った反応がディスプレイ上に展開されるものの、結果として訪れるものは同じようなものである。その抗えなさは、プレイヤーに行為させたからこそ感じさせることができる。

これが、ビデオゲーム特有の体験なのである。

 

『September 12th:A toy World』は実験的なゲームである。

しかし、もちろん一般的なゲームクリアを目指すゲームでも、同じような体験を得ることができる。

たとえば、個人的な趣味で選ばせてもらえば、『Europe Universalis Ⅳ』にかつて存在した「西洋化(Westerlization)」というシステムを思い浮かべることができる。

 

このゲームは15世紀半ば~19世紀初頭の全世界の国を選んでプレイできる歴史シミュレーションゲームだが、ゲームスタート時には、西欧国(フランスやイタリア)と非西欧国(中国やインド)との間には先進技術獲得のための必要コストに大きな差が存在する。

ところがゲーム後半、非西欧国が西欧国に隣接することで実行可能となる「西洋化」コマンドにを使用すると、国内の大きな混乱と引き換えにこの先進技術獲得コストの差を一気に埋めることができるのである。

いわば、明治維新や洋務運動、アタテュルクの革命のようなものをシミュレートしたシステムなわけだが、このシステムを前にしてプレイヤーは、ゲームメカニクスの要請に従って、否応なく西洋化に邁進せざるを得ない現実の歴史をシミュレートすることになる。

もちろん、西洋化を選ばないこともできる。しかし、それを選択すれば、先進技術獲得が遅れるという困難に襲われる。

この「選択の自由」を前提とすることで初めて、現実に存在する「抗えないもの」へと直面させられる、という事態は、ビデオゲーム特有の体験である*1

 

 

その他、面白そうな要素

  • ゲーム行為を「独特の繊細な能力を必要とするものであり、また概念的に答えが出るものではないが、それでいて、人に説明されたり自分で試行を繰り返すうちになんとなくできるようになる行為」(p183)と定義している部分(第七章、美的行為の節)
  • ゲーム行為は現実のものであるということ(第十一章、p281~)

 

→ ゲーム行為についてはもっと読み込んでその独特さを理解していきたい。

 

また、「ゲーム的リアリズム」については第十章 p261~ で触れているが、Ever17とかは虚構的内容からゲームメカニクスを類比推論させる際の「仕掛け」に関する叙述トリックと関わってきそうなので、その部分についてももう少し考察したい(FGOミステリーイベント等も)。

 

ゲーマーのジレンマはあまり問題でないようにも感じるけれど、日本語で検索しても言及しているウェブページが見つからないため、あまり議論に深入りできなさそうのが残念。

 

 

 

我々はつい目の前に見える風景を分割不可能な一枚岩のように見てしまうことが多くある。

哲学/批評の仕事は、そこに(それが真に実在するかどうかはともかく)「仕切り」を加えることだと思っている。

 

本書はゲーム行為において一枚岩に見えていた風景に二つの意味論という仕切りを加えてくれた本だった。

そのことによって、これまでは(見えていながら)見ていなかった数多くの風景が目の前に広がっていく。

この本もまた、そんな体験をさせてくれる本なのは間違いないだろう。

*1:なお、この「西洋化」システムは、現在はより西洋中心的ではないシステムへと差し替えられてしまった。個人的には少し残念な思いである。